小林三郎氏の『稲田御影石材史』52ページに「加波山石の輸送を英国人技師の指導で加波山から岩瀬駅まで8kmの軽便軌道(トロッコ)によって実施していた(のちに輸送費がかさみ休止)」という記述がある。1889年の水戸線開通直後の話であり、本当なら大変すごいことだ。
関東鉄道70年史には「明治32年に石材採掘会社が樺穂村桜井から岩瀬間に人を乗せる専用の軽便人車軌道の敷設を計画したこともあった」という記述もあるようで、計画倒れだった心配もある。ただ、別物であろうと思われる証拠は、後者には「人を乗せる専用の」とある点だ。石材軌道の前者と大きく異なる。
そして実在したと思われる理由がもう一つ。岩瀬駅側に終点疑定地があるという点だ。
岩瀬駅西側の真壁街道踏切を渡ってすぐ。長い安全側線が伸びている脇に、ホームにちょうどいい高さの土地が続いている。ここが加波山から伸びる軌道と水戸線の石材受け渡し場所であったというのだ。
これは「このように説明している人がいる」と私が説明を受けただけであり、私自身が確証を持って伝えているわけではない。資料が見つかれば更新するつもりだ。
黎明期の水戸線に接続する長大軌道線なんて、ロマンの塊だ。