裏筑波は裏じゃない

茨城岩瀬の大学生 地元についていろいろと

岩瀬駅前土地区画整理事業の碑

岩瀬市街地の中心部にある明日香地区。

地区内にある明日香公園には、岩瀬駅土地区画整理事業の象徴の地としてこの地域の開発に関する石碑がある。

岩瀬駅土地区画整理事業の概要

この事業の始まりは国道50号岩瀬バイパスの整備。これがスプロール化を招く危険があるとの意見から、町で計画してバイパス沿いを開発することを決定した。

山を切り崩した土で田畑を埋め立てて土地を造成し、そこに近代的な街区を作り上げた。切り崩された山は総合運動公園として利用されている。

道路や公園、排水設備の整備を終え、平成3年(1991年)に事業は完了。岩瀬の新たな時代が始まった。

開発面積77.1ヘクタール、地権者221名という規模の大きな開発だった。

関係者名簿

関係者名も記されている。

理事長の天賀谷三男は町議会の副議長も務めた議会の重鎮。その他仁平、友常、仲田、大山などこの地域の有力者が名を連ねている。岩瀬が一丸となって、将来のために頑張っていた。

中田清一町長の顕彰碑

隣の中田清一町長の顕彰碑には、富谷で生まれ、26歳で北那珂村議会議員に当選し、生涯を懸けて岩瀬の発展に尽くしたことが記されている。

設置当時の広報いわせ 昭和62年6月号

石材組合誌

岩瀬町長を15年以上務め、この区画整理事業にも深く関わった。清一町長が岩瀬に遺したものは、今の岩瀬にも大きく役立っている。

息子とは雲泥の差だ。

将来の3万人都市も見据えた大規模な開発。

駅前の衰退と引き換えに新しいまちづくりに力を集中させる捨て身の開発だったが、衰退が加速する近隣市町村を尻目に、この頃は岩瀬インターチェンジ(現:桜川筑西インターチェンジ)の設置も決まり、岩瀬はまさに黄金時代だった。

実際は2万3000人がピークだったが、この開発が岩瀬に遺したものは計り知れない。

岩瀬の先人には感謝してもしきれない。