
東友部の一角にある碑と祠
神社に見えたが、碑文を読むとこの場の趣旨がわかった。

陸軍伍長 勲七等功六級 故 宮山茂君の碑
氏は、千葉県多古町、永沼富蔵の次男として生まれ、東那珂村友部、宮山しなの夫として入籍。昭和五年、現役兵として入隊。軍務に精励、精勤賞二回、また、射撃、銃剣術の名手として表彰され、下士官適任證書、善行證書を授与され除隊。支那事変勃発するや敵前上陸をなし、千辛万苦を克服し旺盛な責任感を以って奮戦した。
とくに南京城攻撃では、中隊と大隊の連絡が完全にたたれたが雨霰の弾雨と蝟集する敵軍の中を東奔西走。大隊本部に辿りつき、大隊長の攻撃指揮に大きな貢献をした。
徐州戦白山西二〇二米高地の作戦に於いては、一意前進につとめ吹きすさぶ砂塵と砲煙の中、部下を激励し真先に敵陣地を乗っ取り群がる敵と対戦したが、敵迫撃砲の一弾が身辺に炸裂。壮烈なる戦死を遂げた。時に、昭和十三年五月二日。午後三時三十分。献身奮闘してたてた赫々たる武勲により、殊勲甲に叙せられ勲七等功六級を賜わった。不滅の英靈は靖国の神として祭られ、祖国を護り、かつ一家の前途に加護佑助をたるるであろう。
昭和十七年十一月三十日
元陸軍大将男爵 奈良武次 遺文
昭和六十一年九月二十三日 宮山しな 宮山茂夫 建之
宮山茂夫 書
昭和61年に遺族によって整備されたようだ。