裏筑波は裏じゃない

茨城岩瀬 地元についていろいろと

桜川市役所岩瀬庁舎(岩瀬町役場)

長らく岩瀬町の中心で、合併後は桜川市岩瀬地区の中心となっている岩瀬庁舎。見た目からしてもう古い。

庁舎案内

フロア案内

岩瀬庁舎には上記の部署が入っている。独立した自治体ではなくなったため、空きスペースも多い。

第一庁舎

平気な顔して建っているが、第一庁舎は1961年完成の築63年で老朽化が深刻だ。エレベーターなんてハイカラな設備はなく、柱はヒビだらけ。職場体験で入ったときはボロさに圧倒されたものだ。

第二庁舎(新庁舎)

第二庁舎も比較的新しいとはいえ、1980年完成の築44年。もうボロボロだ。

あまりに老朽化が酷いため、すぐ北にある岩瀬中央公民館を支所機能も持つ複合施設に建て替え、これら役目を終えることになっている。役目を終え次第解体となるとは思うが、跡地利用がどうなるかはわからない。

自治」碑

敷地にある巨大な石碑。1964年の岩瀬町合併10周年記念式典の際に建てられた。

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合併の記

そもそも岩瀬町は清楚脈々たる丘陵をめぐる清流桜川をいただいて、日本古代史に見られる先住民の安棲した遺跡にその伝説を偲ぶことができる。有史年代に入り大化の改新前はこの地に新治国造が置かれまた新治評とも称せられた豊穣な穀倉の地である。養老年代に新治郡の名現れその後中郡の庄ともいわれ文禄太閤検地の際西那珂郡に改められ元禄の頃茨城郡に属して大幡郷坂戸郷となる。明治初年廃藩置県により大区小区制に分かれ明治十一年郡区町村編制法発布により四十二ヶ村となる。更に茨城郡は東西二郡に分れ西茨城郡に配されて戸長役場が置かれた。明治二十二年憲法発布町村制度は改められ西那珂村北那珂村東那珂村となり西那珂村は大正十四年一月一日旧岩瀬町制が施かれた。

本町は東経百四十度北緯三十六度に位置し加波羽黒髙山富谷の連山を望む盆地にあり、昭和二十二年四月新自治法のもとに一町二ヶ村は新体制を確立昭和二十八年町村合併促進法施行され一町二ヶ村はそれぞれ合併促進委員会を結成して慎重審議し昭和三十年一月十二日対等合併を議決同年三月三十一日町民の福祉向上をめざし財政基盤を強化しここに岩瀬町は誕生した。同年四月一日旧岩瀬町役場を本庁とし北那珂支所東那珂支所五十六区制による新町政を開始戸数四千三百八十五戸人口二万四千五百八十七人総財政規模九千七百六十二万余円となった。今日十周年を迎えて財政規模二億一千五百余万円に達し産業の開発教育の充実保健福祉の向上等飛躍的発展を遂げ茨城県のモデル自治体の栄光に輝いているのは町民愛郷精神の発露である。ここに本町の歴史的発展を顧み先賢の偉業を偲び将来の繁栄を祈念しその由来を刻して後世に伝えんとするものである。

茨城新聞社取締役社長 茨城放送取締役社長 後藤武男 撰文

水戸市 山内光雲 書        昭和三十九年十一月 岩瀬町建之

その他付属設備

役場の敷地内には様々な構造物がある。

バス停屋根とベンチ

通りに面した場所にあるバス停の屋根

東武鉄道や東野交通、関東鉄道の路線バスがあった頃は岩瀬町役場バス停が主要バス停となっており、下館−岩瀬町役場−笠間やつくばセンター−真壁−岩瀬町役場−中央公民館などといった幹線系統がここを経由していた。

2008年に全滅した路線バスは2017年には一部が復活したものの岩瀬庁舎止まりとなっため、通り沿いのこのベンチはあまり使われていない。

防災備蓄倉庫

平成24年に設置された新しい防災倉庫。

浸水実績図

昭和61年8月の大雨で桜川が氾濫した際の氾濫範囲を示す看板。岩瀬のほか流域自治体の役場に広く設置されている。

岩瀬町内でもかなりの広範囲で浸水被害が出た。8月ということもあり、米づくりへの被害は想像するに足らない。

北朝鮮帰国記念碑

朝鮮人帰国事業の記念碑。1962年のことであり、記録は少ない。

標語看板

岩瀬町時代の標語看板が残っている。霞ヶ浦関連や交通安全のものだ。

町の部分を市に変えただけのお手軽変更や、それすらなされないあたり田舎あるあるといったところ。