

桜川市商工会館の裏に立つ案内板。ここから離れた友部地区内にある、花園古墳群の説明板だ。
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市指定花園古墳三号墳の石室壁面板石 三号墳の復元は困難であるため、彩色壁面の底存板石(奥壁・両側壁)を、考古資料として昭和五十九年十月一日、町の文化財に指定し、現在地に、墳丘を築造し埋蔵しました。 |
このような案内板がなぜここにあるのだろうか。看板にあるようにここには模擬墳丘もあるのだが、実は公的な説明には無い、残念な過去がある。

なんとこの墳丘、専門家の助言を無視し彩色壁面を勝手に埋めたもの。1983年の発掘後、彩色壁画は岩瀬町役場裏の駐車場の一角にテントを張って保存された(これもおかしい)が、空気が直接触れ壁面の乾燥が進むとして、独断で商工会館脇の空き地の土の中で保存することにしたというのだ。当然、発掘を指揮した明治大学 大塚初重教授や東京国立文化財研究所の江本義理 保存科学部長はこの対応を非難、呆れられている。
看板で墳丘としているものは、実際は彩色壁画の岩石を三段に積み上げ、壁画と壁画の間には石を入れてすき間を開け、ビニールシートで覆った上に土をかぶせただけの代物。墳丘なんて後付けの解説だ。
しかも岩瀬町教育委員会は「東京国立文化財研究所の指導で行った」と県に対して虚偽の報告をしており、県教育委員会から厳重注意を受けている。一度、土の中に埋めた彩色壁画を急に外気にさらすのはよくないため、掘り返すこともできなくなってしまった。ひたちなか市の虎塚古墳の壁画を超えるとの評判もあっただけに、当時の岩瀬町教育委員会は能無しとしか言えない。

いま桜川市の文化財関係は真壁の独壇場。少しは岩瀬にも触れてくれよと思うことが多かったが、岩瀬町のこのような杜撰さを見せられると、真壁に全部任せた方がいいように思えてくる。
岩瀬町は青柳一号墳でも出土品を2年も屋外放置する失態をやらかしており、「数年後に完成する資料館に保存するから問題ない」とふんぞり返っていたようだが、結局資料館はできず。
そもそも彩色壁画が見つかったのも、花園古墳の土地の所有者が私道工事として届け出なく古墳を破壊したら発見されたというもの。遺体を安置する玄室部分は私道工事ですでに破壊され、三個の岩石も土地所有者が庭石に使っていたという。
役場にも住民にも、岩瀬町に文化財保護という意識はみじんもなかったというのが、未来からの答え合わせだ。
情報源
- 花園古墳群から彩色壁画 3色、葬儀の様子? 虎塚古墳しのぐ貴重なもの
【昭和58年】1983.10.26(水) 読売新聞茨城 朝刊 18頁 - 花園古墳の彩色壁画岩石 専門家驚くずさん保存 岩瀬町教委 積み上げ土盛り
【昭和61年】1986.03.12(水) 読売新聞茨城 朝刊 18頁 - 彩色壁画岩石ずさん保存 県教委、厳重に注意 岩瀬町で現地調査
【昭和61年】1986.03.13(木) 読売新聞茨城 朝刊 18頁 - 文化財を屋外放置2年間 岩瀬町 青柳1号墳出土の古墳時代中期の盾
【昭和61年】1986.07.26(土) 茨城 朝刊 18頁