
稲田と福原の間にある国道50号線の旧道。稲田小中学校にも近いこのあたりの道沿いに小さなお地蔵様が安置されている。茨城県市町村合併史の699ページを見ると、ちょうどこの場所(稲田133番地の1)に、笠間市の前身の一つである西茨城郡稲田町の役場があったようだ。
稲田町は1954年の町制施行から1958年の笠間町との合併までの4年間した存在しなかった町。その前は西山内村を名乗っていた。
”山内”は笠間藩領のうち笠間盆地内を”山内”、岩瀬盆地内を”山外”と呼んでいたことに由来し、西山内村は山内エリアの西の方だから西山内といった名前になっている。ほかに北山内村(笠間市箱田周辺)、南山内村(笠間市北吉原周辺)があった。
笠間盆地側は山内という名称を使った一方、山外と呼ばれていた岩瀬盆地側は山外を用いず、かつての西那珂郡から取り西那珂村、北那珂村、東那珂村といった名称を使った。笠間藩への帰属意識に濃淡があったのだろう。


大抵の他市町村の役場跡地には石碑や広場、公共施設が残っているものだが、このあたりには掲示板らしきものと神社によくあるポールしか残っていない。役場の周りも個人宅しか見られず、稲田と福原の間というだけで元からあまり中心性のない場所だったのかもしれない。
西山内村→稲田町の沿革
本町は、古昔常陸の国新治郡巨神の郷に属し、文禄年間茨城郡に属し、明治五年大小区の制がでると一小区のうちにあった。明治十一年都区町村編成法が発布されたことにより上下稲田を合わせ稲田村と改め、飯塚、飯岡を合わせ飯合村と改め、田上、南中山、北中山、関戸の四箇村を合わせ福原村と改め、同十七年になりこれに本戸村、大郷戸村を合わせ一連合とした。明治二十二年町村制の発布とともに右連合のうち本戸村、大郷戸村を除き西山内村となった。従来の村名を大字名とし、新に行政区を分け、田上、南中山、北中山、関戸、上稲田、下稲田、飯塚、飯岡の八区とした。明治二十二年鉄道の開通に伴い石材採掘事業発展に従い、人口が増加したため上稲田区の一部及び下稲田区の一部を合わせ明治四十一年神田区が生れ、九行政区とした。更に昭和二十九年八月村を町とし、名称を稲田町と改め昭和三十二年十二月笠間町編入合併を議決し県議会においても同月二十三日議決済で同二月末合併施行の予定である。(茨城県市町村合併史より)
年表
- 1878年 上稲田村と下稲田村が稲田村へ、田上村・南中山村・北中山村・関戸村が福原村へ、飯塚村と飯岡村が飯合村へそれぞれ統合
- 1885年 稲田小学校創立
- 1889年1月 水戸鉄道開通。しかし村内に駅は設けられず
- 〃 4月 稲田村・福原村・飯合村が合併し西山内村が発足
- 1897年 稲田駅が貨物専用駅として開設
- 1898年 稲田駅で旅客取り扱い開始
- 1890年 福原駅開業
- 1954年 西山内村が町制施行し稲田町へ改称
- 1958年2月 笠間町と合併し笠間市となる