あるときTwitterを開いているとこのような写真が出てきた




そこには文字ベースでしか見たことのない東野交通岩瀬車庫がはっきり写っていた。初めて見た写真だ。
岩瀬駅前の路線バス変遷
関東鉄道70年史によれば、戦前の岩瀬の路線バスは茨城急行自動車(今の茨城急行自動車とは全くの別物)が下館~岩瀬~水戸を、笠間自動車商会が岩瀬~筑波を、実業家の本橋頴一の持つ本橋乗合自動車が岩瀬~益子(大泉?)を運営していたという。
1933年には筑波鉄道が完全に並行する笠間自動車商会の岩瀬~筑波間路線バスを買収し経営が移った。
その後戦時期に入り1943年には茨城急行自動車は東武自動車に買収されたものの、1944年に茨城県北西部の路線バスは戦時統合により常総鉄道へ集約され、1945年に常総筑波鉄道となった。
しかし戦時統合を「強制されたもの」として戦後に分離復元する動きが起こり、下館~水戸路線を含む元・茨城急行自動車だった路線は東武自動車に安く譲り渡すこととなったほか、1950年には岩瀬~益子路線は岩瀬乗合自動車に譲渡することになった。
全国バス事業要覧昭和27年版には岩瀬乗合自動車の概要が載っている
岩瀬乗合自動車
・運輸開始 昭和25年11月
・資本金1,500,000円 興業費1,804,963円
・運行キロ数 21㎞
・車両数 28人乗り1 35人乗り2 計3両
・従業員数 運転士2 車掌2 事務員1 計5名
・主なる系統 岩瀬町~益子町 運転系統数1

岩瀬乗合自動車は今も駅前にあるタナカヤの2代前の主人、田中正一氏が持っていたようだ。タナカヤは岩瀬~益子の間にある大泉地区にルーツがあるためその縁もあり所有したのだろうが、たった1年後の1951年には東野交通に路線を譲渡している。1路線のみの運営に苦労したのだろう。


このような流れを経て東野交通は茨城に進出することになった。東野交通は現在の岩瀬郵便局がある場所に岩瀬車庫を設置し、親会社東武とともに路線を拡充していった。
岩瀬から富谷・南飯田を経由し門毛前根へ向かう便や、大岡・南飯田を経由の門毛前根行き、富岡・西飯岡経由の小栗行きといった便が相次いで設定され、国道50号線を縄張りとする東武バスの下館↔岩瀬↔笠間線や国鉄バスの岩瀬↔羽黒↔今泉線とともに岩瀬の路線バス網を形成していた。
1980年代にも南飯田小学校の分校廃止を代替する小塩・山口鏡池行きや、門毛金場行きが開設されたが、モータリゼーションが進み東武バスや国鉄バスが相次いで岩瀬から撤退すると、東野交通も続き1991年に岩瀬車庫は廃止された。代替交通のないまま岩瀬から大半のバス路線は消えていった。
両毛エリアの路線バスは東武バスが事実上の独占区域であったことから、こいつが完全撤退に至ったことで見事なまでの空白域になったことのポストを見かけたのだが、これに関して高崎経済大学の教授を務められていた大島登志彦氏が一連の動きについての論文や著書を発表されとりましたな。 https://t.co/CKzEZa6YyK
— 無賃乗車お断り@暫く喪中 (@hideyan_osaaho) 2025年12月9日
東武バス沿線は岩瀬のように代替機関の整備がないまま、雑にバスが廃止された街が多い。おそらく東武バスにとって、稼げない上に何の縁もない地域だからこそ雑にバッサリ切れたのだろう。これが関鉄であればあと15年は路線バスが残っていたはずだ。
いくら民営とはいえ東武バスの姿勢には疑問符が付くが、路線バスが一気に消えても代替手段を全く考えない岩瀬町役場にも同様に疑問符がつく。