泉川の神田さくら橋の脇にある石碑群
左から、泉川土地改良区の碑、西那珂第一耕地整理竣工記念碑、一色勝之助頌徳碑と並んでいる。
碑文を記そうと思うが、送り仮名のない時期の碑なので意味はなんとなくで受け取ってほしい。
一色勝之助君頌徳碑
尾崎行雄題辤の立派な石碑。大正13年5月18日に建てられた。
一色勝之助氏は大泉に生まれ、県議を務めた地元の名士だ。上記の耕地整理も主導し、発展に寄与している。
息子の一色武雄氏も親に負けない名士で、岩瀬町長を長く勤めて名誉町民となっている。
一色勝之助君頌徳碑
咢堂 尾﨑行雄
一色勝之助君諱徳承號一笑真壁郡大村清水与一郎君次男明治廿年入籍西茨城郡大泉一色重四郎君壻養子明治十九年修了栃木縣師範学校高等科歴任益子茂木宇都宮等各小学校至䖏有令名廿四年辞職師郷専治家道而桃李成蹊衆望月加久居區長氏子総代村會議員郡會副議長縣會議員縣参事會員等要職能尽任務献替不尠大正元年為西那珂第一耕地整理組合長八年任西那珂協和産業組合長不言而善応成蹟皆佳良大正二年賞勲局下賜銀盃以賞教育賛助之功十三年西茨城郡農会表彰農事丹精之労十四年一月一日岩瀬町際擧故西那珂村命名岩瀬町之祝典特録自治発達神社擁護之功績以傳永久矣先哲天上善如氷水善利萬物而不爭處衆人之所悪今也挙滔々衒名奔利求若斯人固不易得唯有一色君性行稍似馬君恬淡謙譲質實不飾嗜酒愛容有投轄磬交驩之概十四年五月十八日病歿享年六十三遠近追慕不措今茲有志胥謀有頌徳碑建立之擧令我輩撰文我輩与君親善肝胆相許四十餘年如一日誼不當辞之畧叙其経歴掲以銘日
致力縣政 恒重倫常 夙整耕地 水利有方 叢裡䒺蕙 自放國香
陰徳所及 豊稔穣々 不䖏其功 名聲維揚 天錫餘慶 家運隆昌
大正十五歳次丙寅五月十八日 真壁 小田部藤一郎撰並書
西那珂第一耕地整理竣工記念碑
茨城県知事 力石雄一郎篆額、県の技師 恒田嘉文撰文の石碑。大正11年5月4日に建てられた。
三那珂郷土史には「耕地整理事業は郷土産業発展史に不滅の光を放つている。 祖先伝来の雑然とした大排水洗域地区の耕地を一望整然たる美田となし、農家の増收、国家の繁栄を図った大事業の概要を記して見よう。大正三年二月起工、大泉、飯淵、久原、西飯岡、富岡、長方の六字、面積百五十一町六反九徹二十一歩、参加地主二百三十人。为一区組合員四十名、二区組合員四十一名、三、四区組合 負二十九名、役員組合長一色勝之助以下四十二名。工事請負人五名。故尾崎行雄翁の趣辞になる顕徳碑及工事竣功紀念碑に精しい事績が刻まれている。」とある。
西那珂村第一耕地整理竣工記念碑
茨城縣知事從四位勲三等 力石雄一郎篆額
培養國本充實民力其方雖夥多不如増殖農産而増殖農産之道莫若増進地力馬西茨城郡西那珂村耕地介在山岳之間交通不便是以勞多而益少村民夙欲改善之末得其機常以為遺憾大正二年請官行耕地整理調査設計之事大正三年二月得官裁起工越二歳告成其區域川互於大泉飯淵久原西飯岡富岡長方之六大字面積百五拾壹町六般十畝貳拾歩恭加地主貳百参拾人事業費凡参萬四百拾六圓於是乎灌漑排水溝洫各得其地而溝径田區井然且為縄直得廢地之開田者考慮七町餘歩矣是㪽以除永遠之地害以促地方生産之發達廼所擧少費多穫之實而各大字改善地力公目的達鳥盖此偉業也實地主村民共同一致之成果一以當時率先盡力公益者之功績而永久不可㤀者也頃有志諸方相諆建碑欲記念之需余文余亦幸關興本事業者既悦其成功亦以美其意敢敍事績之梗槩以告後毘云
大正九年崴次庚申九月吉辰
茨城縣技師從五位勲四等 恒田嘉文 撰文并書