
岩瀬の心の故郷 岩瀬小学校
名の通り岩瀬の市街地を学区とする岩瀬の中心となる学校で、2023年度344人の児童が学んでいる。


岩小の始まり

岩瀬小学校は元を辿ると犬田小学校に行き着く。
この計画の始まりは明治7年。学区連合村を定め、犬田村、西新田村(現在の西区)、本新田村(現在の東区)の三か村で一小学校を創設しようとし、戸長の仙波柳右エ門、榎戸平八、榎戸源左エ門、友常喜市等有志の呼びかけで寄付金を募った。そして仮校舎を犬田法蔵院に置くことと決め、明治8年(1875年)1月10日に犬田小学校は生徒六十余名で開校を迎えた。
明治時代の岩小
独立校舎を構える
明治13年には学区連合村が岩瀬、犬田、青柳、水戸の4村に改組され、同時に岩瀬村の小森源之祐宅を借りて移転。明治14年4月には犬田の仙波秀之助の畑4畝歩を買い入れ、寄付を募り校舎を新築。9月に完成し当地に移転した。
明治17年には学区含む一帯が富岡村外13ヶ村連合としてまとめられ、村内の3小学校はそれぞれ高等西飯岡小学校、中等犬田小学校、初等大泉小学校と改称した。しかし連合村1つにつき尋常小学校1校と定めた明治19年の小学校令により3小学校は廃され、犬田小学校は西飯岡尋常小学校のいち教場となった。
独立と再移転
明治22年には町村制施行により連合村が西那珂村に統合され、西那珂小学校犬田分教場となっているが、明治25年の改正小学校令により犬田分教場は独立し、西那珂第二尋常小学校となった。

百年のあゆみ より
明治27年10月には大字岩瀬に新校舎が竣工した。現在の岩瀬中央児童公園及びその周囲を敷地としている。
ここは元々共同墓地があった場所で、水戸線開業に伴う市街化に併せて山王墓地として郊外に移し、そこに移転してきた形だ。校庭の大銀杏は墓地があった頃の名残とされている。

大正時代の岩小
大正時代は増築を繰り返した以外は平常の学校運営が続いた。大正12年には西那珂第二図書館が設置され、大正14年には西那珂村が町制施行し岩瀬町となり、校名を岩瀬尋常小学校に改めている。
昭和初期の岩小

昭和12年から岩瀬町長を務め、名誉町民となっている。当時は助役であった。(百年のあゆみ より)
大正時代に引き続き通常の学校運営が続いた。一色氏によると、町内には高等科がある小学校が現・坂戸小学校のみであり大変不便であったため、昭和10年には岩瀬尋常小学校に高等科を置く議決がなされたようだ。しかし、「高等科が廃止されるのでは」と坂戸地域の没落を恐れた住民による執拗な反対運動が行われ、計画は立ち消えとなっている。中には役場に押しかけて問い詰めた町民もいたようだ。

戦時中の岩小
分断と移転

戦時中の岩小は移転から始まった。昭和14年2月に県道(現在の旧国道50号線)が、4教室を潰し学校内を分断する形で開通したため教室間の移動に道路横断が必要となり、大きな支障となった。これを受けて岩小は急ピッチで移転することになる。


現在小学校がある鍬田へ移転したのは同年11月。かつて隔離病棟があった町有地を使用しており、移転予算は5万円と、当時の町年間予算に匹敵する巨大事業だったという。

翌年には斉川源四郎氏寄贈の奉安殿、太田平太郎氏寄贈の二宮尊徳像が揃い、学校としての体裁が整った。奉安殿と二宮尊徳像は戦後撤去されたが、二宮尊徳像は再設置され現存している。
昭和16年には国民学校令が出され、岩瀬尋常小学校は岩瀬第二国民学校と改称した。
集団疎開の受け入れ

戦況が悪化する中、岩小は都市部からの集団疎開を受け入れることになった。
昭和19年8月に東京都向島区の木下川国民学校(後の墨田区立木下川小学校。現在は統合され八広小学校)から児童88名、教師寮母7名が疎開し、宿舎は大和屋旅館、富田屋旅館の2箇所が設定された。翌年4月には秋田に再疎開している。
戦後の岩瀬小学校
戦後の教育改革の一環で昭和22年に6・3制が始まり、岩瀬第二国民学校は岩瀬第二小学校と改称。昭和30年には岩瀬町、北那珂村、東那珂村の町村合併により新・岩瀬町が誕生し、校名は現在の岩瀬小学校に落ち着いた。
増築を繰り返していく中、昭和33年位は学校医の吉原清先生(現在の吉原医院の祖父)から校旗の寄贈があった。
校歌制定

校旗の次は校歌をとの声が高まり、校舎増築のお祝いに間に合うように校歌を作ることとした。
作詞を茨城大学の塚本勝義氏、作曲を同じく茨城大学の岩井清志氏に依頼し、「いつまでも肝に銘じて忘れられない郷土の自然として、北栗山、富谷山、筑波山、桜川を、また、歴史にのこる桜川伝説及び、 二宮先生の事蹟をとり、第一節には、『健康』を、第二節には、『勉強』(動労を含めて)第三節には、『至誠』を強調し、各節くりかえしの、みんなにこにこで、『協同』が、表現されている。なお、みんなにこにこは、一年生にもわかる、平易なことばがとられている。第三節のいつまでもは、桜川伝説における、母子相愛の至情の『いつまでも』と、賢い人(二宮先生)を、『いつまでも』とがかけてある。 明るい子どもたちの歌声が、教室から、校庭からそして町中から響きわたることを期待して」とされる校歌を作成。昭和35年に制定された。

その後、校庭に様々なものが設置された。


百年のあゆみ より
昭和38年には岩瀬町立体地図、昭和39年に小便小僧、昭和42年に交通安全施設、昭和44年にプール昭和49年に交通公園と相次いで設置されたが、現在まで受け継がれているのはプールのみだ。
創立百周年記念式典

昭和50年には創立百周年記念式典が挙行された。

私が参考にしている岩瀬小学校百年のあゆみもこのときに発行されている。
富谷分校移管
同年には南飯田小学校富谷分校が岩瀬小学校に移管された。富谷分校は場所的には岩瀬小か坂戸小でもおかしくないが、富谷地区が旧北那珂村であるという歴史的事情から長く南飯田小学校の学区だった。
校舎建て替え

百年のあゆみ より

昭和54年には3階建ての現校舎(鉄筋コンクリート造)が竣工、翌年には体育館も竣工し現在の岩小の基盤が整った。
昭和60年度末には富谷分校を併合している。
平成の岩小
平成の30年間、岩小はほぼ全くと言っていいほど変化がなかった。強いて言えば町村合併で桜川市立岩瀬小学校となったこと、給食センターが統合され更地となったことくらいだろう。
現状


全国的に少子化が進み市内の小学校は目も当てられない児童数となっており、岩小も私のいた5,6年前からは100人近く児童が減っている。これでも岩瀬小学校区は若者が多いのでギリギリ持ち堪えている方だ。つい最近は暑さ対策でエアコンも付いたということで羨ましい限り。
岩瀬の友は元気に強く、これからも頑張ってほしい。